新撰組・斎藤一勤務先訪問記
新撰組隊士、斎藤一探索記の続きです。
この散策シリーズ、背後で〝その筋の方〟のチェックを受けて
いるようでして(笑)、それはそれとして、諸説の結論は〝専門
家さんたち〟にまかせましょう。
ところで、斎藤は維新後、警視庁に勤めました。
また、西南戦争に行ったりもしました。
そして、警視庁をやめたあと、明治24年、東京高等師範学校に
就職、附属の東京教育博物館で看守として働きはじめます。
その看守としての斎藤が詰めていた門衛(正確にはその場所)
が、今も残っているということで湯島聖堂に行きました。
(文京区湯島1-4-25)
湯島聖堂は、江戸時代、昌平坂学問所があったところ。
昌平坂学問所は、旗本や御家人たちの子供のための学校で
すよね。こちらは昌平坂です。

湯島聖堂の中に、大成殿という大きな建物があります。↓

そして、こんなものもあります。↓
世界最大の孔子像だそうです。緑に映えています。

構内を一回りしたあと、〝斎藤一〟をさがすために、正面であ
る迎高門へ行ってみました。↓
おお、ありました。ありました。
知らなければ気づかない場所です。
斎藤一のかつての職場(東京教育博物館)の門衛だった同じ
場所に、門衛が残っていました。
左側の小さな建物(↙)がそうです。
彼の職場跡といえます。

家にもどってから、国立国会図書館近代デジタルライブラリーで
調べてみました。
彼が勤めていた当時よりあとの資料ですが、当時、広さは2.25
坪、「門衛所」と呼ばれていたようです。
(『東京教育博物館一覧 明治45年』)
なるほど、この同じ場所に、明治時代、新撰組のあの斎藤一
がいたのか、そう思うとぞくぞくしてきます。
彼の看守(守衛)という仕事は名目で、実際は撃剣部の師範だ
った、ともいわれています。
それでも、彼がここにいたと〝想像〟すること自体に問題はな
いでしょう。

永倉と斎藤は、同じ大正4年に亡くなっています。
長生きしたことも含め、二人に共通するものがいろいろありそ
うです。
門衛の背後にまわってみました。
ツツジの花が、曇り空と張り合うように咲いていたのが印象
的でした。

さらに詳しくは→
にほんブログ村
この散策シリーズ、背後で〝その筋の方〟のチェックを受けて
いるようでして(笑)、それはそれとして、諸説の結論は〝専門
家さんたち〟にまかせましょう。
ところで、斎藤は維新後、警視庁に勤めました。
また、西南戦争に行ったりもしました。
そして、警視庁をやめたあと、明治24年、東京高等師範学校に
就職、附属の東京教育博物館で看守として働きはじめます。
その看守としての斎藤が詰めていた門衛(正確にはその場所)
が、今も残っているということで湯島聖堂に行きました。
(文京区湯島1-4-25)
湯島聖堂は、江戸時代、昌平坂学問所があったところ。
昌平坂学問所は、旗本や御家人たちの子供のための学校で
すよね。こちらは昌平坂です。

湯島聖堂の中に、大成殿という大きな建物があります。↓

そして、こんなものもあります。↓
世界最大の孔子像だそうです。緑に映えています。

構内を一回りしたあと、〝斎藤一〟をさがすために、正面であ
る迎高門へ行ってみました。↓
おお、ありました。ありました。
知らなければ気づかない場所です。
斎藤一のかつての職場(東京教育博物館)の門衛だった同じ
場所に、門衛が残っていました。
左側の小さな建物(↙)がそうです。
彼の職場跡といえます。

家にもどってから、国立国会図書館近代デジタルライブラリーで
調べてみました。
彼が勤めていた当時よりあとの資料ですが、当時、広さは2.25
坪、「門衛所」と呼ばれていたようです。
(『東京教育博物館一覧 明治45年』)
なるほど、この同じ場所に、明治時代、新撰組のあの斎藤一
がいたのか、そう思うとぞくぞくしてきます。
彼の看守(守衛)という仕事は名目で、実際は撃剣部の師範だ
った、ともいわれています。
それでも、彼がここにいたと〝想像〟すること自体に問題はな
いでしょう。

永倉と斎藤は、同じ大正4年に亡くなっています。
長生きしたことも含め、二人に共通するものがいろいろありそ
うです。
門衛の背後にまわってみました。
ツツジの花が、曇り空と張り合うように咲いていたのが印象
的でした。

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この記事へのコメント
いちゆうさんは斉藤さんがお好きなんですね。
私は今、大河ドラマ『新選組』を見ていまして、斉藤さんはとても強いイメージです。
もし守衛として、そこにおられただけでも怖かったんだろうなと思いました。
新撰組はみんな好きですね。近藤も土方も沖田も永倉も斎藤も好きです。
斎藤が〝門衛所〟に実際詰めてのかわかりませんが、少なくとも挨拶のために顔を出した、なんてことはいえないかなあ、なんて思っています。